ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たちの感想・レビュー(180)
ところどころ論理の飛躍が気になったけれど感覚的にはとても理解しやすかった。相田みつを、浜崎あゆみ、NANA、ケータイ小説の文脈などは特に。かなり読みやすいのでケータイ小説騒ぎのひと段落した今このタイミングであっても手に取る価値は十分ある。
ケータイ小説での「リアル」感の話は、濱野智史の『アーキテクチャの生態系』で論じられた操作ログ的リアリズムと繋がる。「闘病ノート」や「絵馬」のような相手に「届かない可能性」のある方法が、なぜ恋人の死後のメッセージの伝達手段となっているのか?⇒それは携帯電話やメールなどは相手に「確実に届く」手段であり、「コミュニケーションの檻」として物語内で登場人物を縛り、(恋愛の)障壁――旧来であればそれは家とか世間とか――として存在するもので、そこからの脱出が望まれていたからではないか……っていう分析がとても面白かった。
著者は昨今の郊外に住む若者の現状や文化にも詳しく、ケータイ小説の流行がそれと深い関係にあることを指摘。副題にも見られるヤンキーという言葉は、もはや郊外でも死語のように思うが、言葉は消えても”ヤンキ―精神”はいまだ根付き、それがケータイ小説にも現れているという。浜崎あゆみの与える影響、『ホットロード』や『NANA』ヤンキー雑誌「ティーンズロード」の読者投稿との意外な類似性などさまざまな観点から、ケータイ小説文化を解体。そのどれもが、わかりやすく語られうなづける内容ばかり。著者の深い洞察力に驚かされます。
自分の中学時代にケータイ小説が流行ったので、実際のところ購買層はあゆの世代より若干下なんじゃないか?と思った。でも恋愛について、コミュニケーションよりも仲間意識に重点を置くことなど、考えさせられる部分も多かった。
『魔法のiらんど』とコンビを解消したスターツ出版が『野いちご』を立ち上げた、ケータイ小説は浜崎あゆみの影響が大きい、本当にあった話じゃないと嫌な読者がいるなど新しく知ったことが多かった。『星の瞳のシルエット』は太田裕美の『星がたり』を膨らませて出来たものとか、矢沢あいの初期の作品は紡木たくの路線を踏襲しているとか少女漫画の話も面白かった。
80~90年代のヤンキーもゼロ年代のケータイ小説の読者層もともに郊外をその生活拠点としており、80年代の尾崎の歌詞においては、自分の外部に教師や制度などの立ち向かうべき「敵」は居たものの、同時に自分の内部の立ち向かうべき「敵」の存在を予感させてもいた。ケータイ小説と親和性を持つ浜崎あゆみの歌詞においては、自分の内部に立ち向かうべき「敵」=トラウマが在る。コギャルが全盛期となり、ヤンキーは衰退するが、「遅れてきたヤンキー」としての浜崎あゆみのデビュー後、再び盛り返すこととなる。なんか要約しにくい…
数年前に流行し、社会現象にまでなったケータイ小説を、郊外化した地方の「ヤンキー文化」に属するものとして読み解く。その指摘自体には首肯できる部分も多く、筆者の言うように、ケータイ小説という「被差別文化」にスポットを当てることには成功していたと思うが、大枠の「ヤンキー文化」に対してはもう少し掘り下げて欲しいと感じた。物足りなかった部分は五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』や難波功士『ヤンキー進化論』などで補うか。
私がケータイ小説を理解できないのは、相田みつをを理解できないのと同じ根だったのか。筆者の論によるとそういうことのようだ。売れている、というのはそれを評価する人が大勢いるということは示すと思うけれど、それの価値そのものを指すわけではないと思う。ポピュリズムのように。それも新たな文化を「被差別文化」としてとらえていると批判されるかな。この本自体で言えば、少ない例から筆者の都合のよい結論を導いているように感じられるところがあるように思う。恋愛観のところは少し興味深かった。
これ一冊では携帯小説の全てを語れないものの、「ヤンキー文化」としての切り口が興味深い。ただ、あまりにも典拠がはっきりとしない文章が多すぎるのと、(注)の引き方や、引用文献の出し方がなっていない方が非常に気にかかった。
なぜかCROOZブログを読んでしまう不思議が一部解明された。ほんとの意味でのサブカルチャーって、もう、ギャル文化ぐらいしかないと思う。それぞれの文化に価値を認めることと、サブをメインに格上げさせたがることは違うと思うので、このまま進んでいってほしい。
遅れてきたヤンキーコミュニティ代表、浜崎あゆみ。都会では売れないが郊外で売れるケータイ小説。回想的ポエム。居場所へのコミット≒ヤンキー。リアルすぎるDV小説なので、感動的なエンディングのためには彼氏には物語上、事故か病気で死んでもらうのが一番。など デフレカルチャーへ続く
被差別文化としてのケータイ小説について。情景のない世界、浜崎あゆみへのオマージュ、回想的モノローグ、地方都市。ケータイ小説自体を読む気力はないけど、ケータイ小説から読み取れる背景は非常に興味深い。
ヤンキ―文化ってホントに排除されているもの。批評的にも世論的にも。だって代弁者がいないから。速水氏はその代弁者だと思う。でも決して彼らを擁護しているわけでもなく批判しているわけでもなく。自分も彼らのような感性になっていたかと思うと、全く彼らの「ジモトつながり」コミュニティとヤンキ―的メンタリティは馬鹿に出来ない。
ケータイ小説の文化的背景を「浜崎あゆみ」や「ヤンキー」などのキーワードで分析していくのが本書の特徴。ケータイ小説を考えるのには恰好の書。
まだ総論は語れない今、各論からしか入れないのは当然。だけど、男性目線なんだなという感じも強い。
流れの早い世界のこと、若干古い気がするのは仕方ないですね。
ケータイ小説のスタートラインのリアル系を分析した作品 ただ、ここから先の想像力の展開を考えると分析枠組みとしても、ケータイ小説自体の可能性としても微妙な気がする
そろそろ冷静に読めるかと思い再読(笑)。オタク論の意味が,カルスタの生真面目さへの反発とドメスティックな文脈の中での分析を持ち込んだ事にあったとしたら,ヤンキー論は多分そのバリエーションを増やす役割がある。無論,これはどっちがヘゲモニーを取るとかそういう話ではなく,恣意的でも良いから語りの枠組みを増やす事自体に意味があると思う。80年代文化からの連続性や地域性への着目は面白いけど,最後のコミュニケーション云々はちょっと無理がある(というか俗流っぽい)気がした。
おもしろい視点で社会を分析してる。郊外/ヤンキー、DV、AC、リアル、浜崎あゆみとケータイ小説の「情景の無い世界。やや盛りだくさんの内容で混乱したけど、読み応えはあると思った。「ケータイ小説の登場人物は地方で地に足の着いた職業に就く」反面、「クリエイティブというイデオロギー」を持って低賃金労働に従事する都会の若者。個人的に気になったので「自分探しがとまらない」も読んでみたい。そういえば去年のドラマ「ラストフレンズ」はケータイ小説的だと聞いたことがあったが確かにそうでした。
何に一番仰天したかというと、『ケータイ小説を求める子たちは”実話を基にした”というところに価値を置いている。 ”嘘のこと”=フィクション には興味がないのだという。』 というくだり。 自分は、真逆で、読み物に ”現実からの遊離”・”フィクションを土台にした現実拡張” を求めている。 現実には現実で手いっぱいなのだから、敢えて、読み物にまで現実を求めるのはどういう心持なのか? とか まとまらないことをつらつら思った。
若者における「リアル」の恣意性はなるほどと/DVのあたりでいちいち何かの団体の本を引用してあてはめていくのはなんだかなーおもた。
繋がりの社会性としてのケータイコミュニケーションや、限定客観性としての「リアル」、ヤンキー文化と浜崎あゆみなど、切り口が興味深く面白かった。
全体的に論拠が物足りない。著者の立ち位置も不明瞭である。ただ、著者が指摘するケータイ小説の特徴の一つに、固有名詞の欠如があるという。つまり、ディテールが抜け落ちた形で登場人物の刹那的な行動が延々と語られているということになる。ケータイ小説を読んだことの無い私にとっては意外だった。それは背景がホワイトで塗られたマンガのコマを思わせる。
刊行されているケータイ小説論はほとんど読んだけど、この本と本田透のものはオススメできる。社会学、ジェンダー、テーマ批評のバランスがいいので。デートDVに関する文章はホモソーシャル論の足がかりとしてぜひ多くの人に読んで頂きたい。浜崎あゆみ、相田みつをなどの抽象的で限定されたリアルについての描写も分かりやすい。比較考察の事例が少ないことと、選択恣意性が問われるので学問として扱うのは厳しいけどね。
DVを愛情と読み違えてしまう心理は、わたしの中にもありそうなのでドキっとした。リアル系のケータイ小説は読んだことはないけれど(ぶっちゃけ『リアル』にあんまり興味がないのです)、これを機に読んでみようかなぁとも思う。
被差別文化として、ケータイ小説をJポップやコミックと関連付けてみる視点はなるほどと思うところもあるけれど、論としてはちょっと粗いか。郊外型大型書店、ショッピングモールの書店などにも代表される「ファスト風土化」という背景の中で、ケータイ小説がヒットしたという指摘はなかなか興味深いので、このあたりもっと掘り下げて欲しかった。
いっぱいふんふんって納得しながら読めたけど、『NANA』のハチがアダルトチルドレンだっていう説はどうかと思う。むしろ『NANA』の中で挙げるのであれば、ナナとかレンじゃないのかな。実際のところはどうだか知らないけど、速水さん第一話しか読まずに書いたんじゃないのって思っちゃった。
本書でしばしば言及される浜崎あゆみに代表されるように、現代の不良(?)文化を写す物語としてケータイ小説を捉えた意欲的な評論。オタク側からの主張「ゼロ年代の想像力」と双璧をなすと言えるかもしれない。
ケータイ小説には、町の固有名詞が出てこないと著者は指摘します。人物描写や風景描写や心理描写をさっぱり、すっきりさせて、どの町の物語としてでも通用するようになっていて。そんなケータイ小説のスタイルと、古川日出男さんのきっぱり切り捨て感が似ていると思うのは気のせい?(2009年1月14日★★★★)
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たちの
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