先生はえらい (ちくまプリマー新書)
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先生はえらいの感想・レビュー(307)
最初はいけすかない本だと思ってしまった…。だけどやっぱりさすが内田さん、教育論を通してコミュニケーションの秘訣がかかれている、気がする。人間は根本的に「わからない」ことに惹かれるんだと思う。余談だけど、なぜAmazonがアマゾンという名前なのか、ラカンがなぜあんなに難解なのか。事例としてだけど納得(笑)
内田さんは力のあるひとだけれど、久々にお腹の底から「おもしろかった!」と思える新書でした。ああ、わたしたちは、好きな相手のことほど分かってないんだなあって、頷きながらわらってしまう本です。
先生のイメージが,「学校の先生」というだけでは読み進めていく内に誤解をしてしまうかも。 しかし,内田樹の本としては,かなり平易。そして,変わらず面白いかと。
中高生を対象とした新書(プリマー新書ってそういうシリーズやったんか…)ということで物凄く読みやすいのでとりあえず勧めます。ここから感じることはたぶん人それぞれやと思うけど、なんであれ何か感じたらそれでよいのだと思います。
内田樹の本の中では分り易い部類に入ると思う(まぁレーベル自体が分り易く作られているのだが)。でもそれなりに普段使わない言葉が出てくるし、そもそも「先生」の概念が難しい。この本で言っている「先生」は世間一般的なものではないからだ。一般的な言葉で言うと師匠に近いかもしれない。この本を読むと先生は選べない物だと分かる。知識を教えてくれる人はある程度選ぶことが出来る。しかし知識的量では人の価値は測れない。そもそも価値とは何だという価値観の違いこそが人それぞれのパーソンなのだと言うことに気付かされる。若者に進めたい
3回目です。この本読むの。最初は父に勧められて。そのまま気に入って、 自分で書店で買ってもう一回読みました。さらにもう一冊買って、人に勧めてます。そのくらい好きです。父は目から鱗と言いましたが、私はもう一つの目が開いたような感じです。会う人会う人が先生に見えるようになりました。ある日突然世界が変わる。良書っていうのはきっとこういうことを言うんだと思います。
この本からはいろんなことを学んだ。これもまた一種の「誤解」なのでしょう。そういった誤解から「この本とのコミュニケーション」が始まる。自分が変化した時、問題がぶち当たった時、もう一度読んで、また誤解してみたいと思う本です。 まぁ要するに「先生」とはその個人が持つ知識や能力を査定することによって「偉い」とか「偉くない」とか言うのではない。誤解の幅を持ったコミュニケーションを用いて自らが学びの主体性を「その人」にぶつける、「ぶつけてもらえる」人が「偉い」のだ。つまりそういう機能を持った「先生」全てが偉いのです。
良い先生/良き師を作り上げるのは、各個人。そしてそれは、コミュニケーションの持つ誤解に基づいている。そこには知識の多少は関係しない。すなわち、どんな人であっても良い先生/良き師になる(なってしまう)可能性はある。当人が望む/望まないには全く関係なく...
口頭試験で受験者に決まり切った、暗記してきた答えばかり言われると試験官はこんなに苦しい思いをしているのか、と思った。読み手に謎を与えることのできる、何が書いてあるか解らない誤読を許す文章の方が得るものがあるとか。誤読を恐れないなら、何を読んで何を感じてもいいんだ、と勇気がわいた。先生も、何を考えているか解らない人を生徒自らが探して導き手とし人間的成長を遂げるべきという。「羊をめぐる冒険」の羊博士とか、「スプートニクの恋人」のミュウとかをイメージした。(いずれもハルキ作品)
生徒ももちろんだけど、是非現場の先生がたに読んでいただきたいと思った。教育論としても、コミュニケーション論としても頷かされる。「誤解の産物」だとしても、良いじゃありませんか。
内田さんのコミュニケーション論がコンパクトにまとめられている印象だった。誤解のないわかりやすさが必ずしもいいわけではなくて、むしろ学びにおいては誤解の可能性や「わからなさ」こそ重要。コミュニケーションは相手と自分(それと「うなぎ」?)の間で生成してくるというのは、言われてみれば当たり前のことなんだけれど、自分が普段風通しのいい「開いた」コミュニケーションがちゃんとできてるかと考えると、自信がない。
わかったような、わからないような。でも面白いです。武道における「居着き」の説明の中で、「『待ち』に居着いている人間は、絶対に相手の先手を取ることができない」、「相手がまず何かしてから、それに反応するようにしてしか動き始めることができない」、「解釈者の位置に身を固定させるということは、武道的には必敗の立場に身を置くということ」、と書かれていました。これを読んで、今の菅首相の辞任をめぐる騒動を思い出してしまいました。みんな、「『待ち』に居着いている人間」になってしまっているのかもしれません。
生徒に学びを起動させるのはやる気を出させることではない。教卓の向こう側に立っている人が、何かよく分からなくて、謎めいていることによって生徒が疑問に持つことだ。生徒が「なぜ」と思った瞬間学びは起動されるのだ。そしてその瞬間に教卓の向こう側に立っている人と生徒は師弟関係になる。という師弟論に納得した!!
p.150あたりからが重要。残りの25pくらいを読んで納得できれば、あとは読まなくてもなんとかなりそう。 以下引用。別に「大人」になったからといって、いきなり賢くなるとか、世の中の仕組みが洞察できるようになるとかいうことはありません。/とりあえずわかるのは自分のバカさ加減だけです。
こういう考え方もあるのか,と思った.煙に巻かれているような気もするけどそうやって煙に巻かれていると感じる私がいる時点で本書で云う「先生」はえらいということになるのだろうか.ということで本書の「先生」とは学校教育での先生のことを指しているわけではないので,そういう先生の話と思って読むと期待はずれになるけど,そんなことよりすごい人生訓が得られる.
また手にしてしまいました。おっしゃりたいことがよくわかるようになってきた反面、この理路をもってどのように現実の学びの場の活性化につなげていけばいいのか、そこになると微妙です。
人からものを「学ぶ」姿勢について、現代思想的なコミュニケーション論まで踏み入っておきながら、それを非常にわかりやすい形で説明している。本を読む行為は本を通じて今まで知らなかった自分の考えを再発見する行為である。なので実際の本の内容なんてどうでもいい。ただこの本は素晴らしい本だから必ず自分のタメになるだろうと信じるという謙虚さ、そしてそこから何としても何かを学び取ろうとする貪欲さ。知識とは本から与えられるものではない、むしろ無理やりにでも奪いとるのである。そうすれば大抵の本は役に立つ。
再読。謙虚に貪欲に学ぶのじゃ。 それにしても、自分も社会を独特な視点からみられるようになりたいなあ。社会学を学べばそうなれるのかな。 先生が見ているのはどのような世界なのかな。
コミュニケーションとは何かよくわかりました。えぇ、内田先生のおっしゃることを誤解しているかも知れませんが、それでいいのです。自信を持って、誤解していいんだと思えました。内田先生はえらい!
「誤解」と言えば聞こえは悪いが、まさにその誤解から生じる意志が、自分を様々な面に対して成長させていきたいという衝動を駆り立てる原動力になっているのだと気づいた。なるほど師弟関係と恋人関係は似ている。また、人や物事について、全てを理解したり結論付けたりすることが大切なのではなく、その途中の、理解を目指して主体的にあれこれ考えていく過程が大切であり、「良い先生(or悪い先生)」が「何を教えてくれるのか」ではなく、何を学び取るかという無自覚的な探究心が大切だということに気付かされた。とても面白いので再読したい。
中高生向けなので他の著書より読みやすかったです。字も大きいし。「コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではない」うーん、まだまだ内田樹さんの本を読んでみたいです。
「街場の教育論」は、すでに読み終わっているため、それと重なるところは随分と多かった。教育論としてよりは、コミュニケ―ション論として興味深かった。対話はメッセージを伝える手段だけど、互いに謎の部分を残しながら、対話することを続ける欲望を私たちは持っているというのは、身に染みてよくわかる。職場で、こちらが話しかけるとすぐに、「わかりました」と返してくれる同僚がいるのだが、なんとなく、厭な感じを持っていた。この本を読んで、その理由がよーく解りました。(笑)
学ぶこと、師につくことについて語られた本。中高生向けなので語り口調もわかりやすい。コミュニケーションや交換のところはすらっと理解できたとは限らないけど、読んで楽しかった。
先生はえらいの
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