戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)
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戦闘美少女の精神分析の感想・レビュー(164)
切り口が素晴らしい。全体の構成は、多面的な分析と豊富な情報というより、迂遠で散漫という印象のほうが強い。散々遠回りしたわりには、最終章が駆け足になってる感がある(本腰を入れた分析についていけなかっただけかもしれないが)。とはいえ、戦闘美少女に対する一つの答えとして価値あるものだと思う。
「戦闘美少女」に萌えるオタクの心理を、セクシュアリティの視点から分析したもの。そのセクシュアリティを、虚構のリアリティを支えるものと捉えるところなどは確かに面白く、個々の議論でもそれぞれ納得できるように説明してくれていて興味深い(まぁ難解で分からないところも多いのだが。とくにラカン!)。しかし、この説明しようのないものを巧く「説明してしまう」精神分析というものの強引さ(根拠不明の関連付けや断定)にはやはりなじめず、今後深入りすることはないかもしれない。
ダーガーは本当にすごい。ただ、これを読んでいて、僕にも年少とかそのくらいの時から中学一年くらいまで、そういう一貫した自分の世界を持っていたことを思い出した。あれは何だったのか。何にしろ、斎藤環さんの文章だなあ、と感じた。ただ、これはちょっと読みにくいかも。セクシュアリテイねぇ。
今から振り返って読むと提示される仮説が多すぎて論旨が散らかってしまっているように感じる。表題の戦闘美少女とおたくの関係について読み解こうとするには無駄が多すぎる。しかし、それも当時の試行錯誤の結果とすれば、この後にほぼ確立されたオタク論の源流として、歴史的な視点から眺めることに面白味はある。
なぜ日本のアニメ・漫画では、(マッチョではない)可憐で無垢な「美少女」が戦うのか。内容は若干難しいが、第2、3章の(海外を含む)「おたく」の自己分析は意外と冷静で面白く読める。また本書で初めて「アウトサイダー・アート」(第4章)というものを知ったが、これはこれで興味をそそられる内容となっている。
読みやすいように見えて内容は高度でした。海外からみた日本のサブカルチャーや、ダーガーのヴィヴィアン・ガールズについてなど、興味深い内容に触れていていいですね。特に2章<おたくからの手紙>にあるオタク作詩「悟り」は、涙なしには読めません。
元の刊行年度が2000年なので、行われている議論は(端的に言ってしまえば)少しの古さを感じるきらいもある。とりわけ最初の方に示される『おたく』像はその典型と言えるけれど、ゼロ年代当初のサブカルチャー周辺の心性を概観するには本書は必須とも言えると思う。いわば橋としての過渡期の意義であり、ここで語られていることは今や辿り着いてしまった向こう岸である現代から、改めて語り直す必要がいずれやって来るのかもしれない。戦う少女という像どころかオタクそのものすら変化しつつあるのなら。
フィールドワーク的な第二章、第三章のオタク像は少なくともエヴァ以降のオタクには当てはまらない。それでも第六章で言及される漫画的「無時間」〝「高密度」と「高速度」の両立という逆説的な表現〟が日本語の表記の特異性にまで射程を持ち〝日本の漫画家やアニメーターの評価においては、絵のテクニックが最優先事項ではないといこと〟と繋がり、またこれはアニメや漫画的な表現が記号的であるが故に身体/性を喚起されているオタクの消費態度(〝想像的なものを象徴的に処理する技術〟と述べられる)にまで伸びる視点として素晴らしいと思う。
キメラ的な本。「おたく」論とダーガーの作品の分析と個人へのインタビューと日本のアニメ小史とラカンを用いた「虚構=記号」と「性=リアリティ」への理論的探求を「戦闘美少女」という概念で接続させたような内容。テーマも論理も構成も、一つに溶け合うことなく絡まりあっている感じがする。
臨床家としてはそれなりに信頼のおける人だが、批評家としては無根拠な断定が多すぎてついていけないところが多い(とくに第一章が)。ダーガーや海外おたくとのやり取りは面白いんだが。ラカン云々は正直ようわからんかった。
精神分析学が多少なりとも分かっていないと理解するのは難しいと思います。オタクの指向と戦闘美少女の受容を、虚構コンテクストとセクシュアリティの問題として解読する本。戦闘美少女がその不在性、完全な実存性の無さゆえに欲望されるという結論は何かやられたって感じがしました。
戦闘美少女、「萌え」という現象について精神分析のヒステリーの概念を使った考察を行っていたのが非常に新鮮であった。現実のヒステリー患者に対し戦闘美少女は鏡像のように対称的な姿を持って現れる。ところでこの本が出版されたのは2000年である。この本の内容は非常に興味深いがそれでも現在の観点から眺めると過去のものという印象を否めない。個人的には現在(日常系、ポスト世界系の系譜)においてファリック・ガールとしての戦闘美少女の機能は失効してきているように思う。この本を現代版にどう読み直すかが重要になってくるだろう。
オタクを語りきれていない点が「性」というものが全てを語りきるマジックワードでないことを示している感じがした。戦闘美少女をファリック・ガールとして位置づけた点には評価をせざるをえない。現在、まどマギについて斎藤環氏がどう語るのか個人的に気になった。
再読。『戦え!! イクサー1』や『トップをねらえ!』、『ストライクウィッチーズ』といった戦闘美少女モノを最近見たので、これらがどういう系譜にあるのかな、と確認するために読んだ。戦闘美少女(=ファリックガール)は「戦うことによって存在が可能になる」というのは、普遍的というか、上に挙げた作品にも当てはまるのではないか。イクサー1は戦うためだけの存在だし、ノリコや宮藤は(才能はあれど)戦えるようになるまで足手まといだし………
とっても面白かった!ダーガー論は絶対に必要だと思う この参照点からの滑らかな連接(僕にはそう思われる)の上でのみ、斎藤環流のオタク論は成立しえたんじゃないかなぁ それは第6章で一気に結晶化する この最終章はたしかに難解だけれども、かなりの奥行きと射程をもった議論(一々指摘しないけれど)を展開している これからも繰り返し読みなおすことになる一冊になりそうだ 名著である!
ヘンリー・ダーガーとおたくの比較、それからラカンのヒステリーによる裏づけは唸るものがありましたが、確かに東さんのいうようにごちゃごちゃしてます。他にもこの著者の本を読んでみることにします。
★★☆☆☆ 東浩紀氏によるあとがきの中で本書の内容へのダメ出しがなされてしまっており、正直気合を入れて読む気にはならない。しかし本書は、斎藤環氏の思想の原点であるとともにオタク文化を通した社会批評のスタート地点でもある。一読しておく意味はあるだろう。
戦闘美少女自身ではなく、戦闘美少女が受け入れられる社会、環境について書かれている。日本における象徴界の働き方の特殊性とオタクのセクシュアリティの話がつながっており、非常に興味深かった。
奇妙なことだが、おたくにセックスは不在であるがセクシュアリティは抜き差しがたいというよりもおたくの転倒した「本質」であるかのような趣きがある。秋葉原は電気街でも、オタクの街でもなく、オタクのセクシュアリティを具現化した街なのではないかと思うことがある(だからこそ、セックスである風俗は昭和通り方面に隠微な形で排除されているのではないか)。ちなみに話は変わるが、乳ゆれの「起源」は風の谷のナウシカだっていうんだが…
戦闘美少女『を』精神分析するのかと思ったら、戦闘美少女を愛でるオタク『を』分析する評論だった。あいかわらず言ってることが半分くらいしか分からないのだが、オタクの心理に関しては色々と心当たりもあり過ぎて胸が痛い。「シニフィアン」とかそういう専門用語にも注釈をつけておいて欲しい。
執筆当時から早十年、おたく論の先駆的存在であるゆえ、今となっては周知のことも多い。でもアメリカなどのたくましい戦う女性と、戦闘美少女の違いを、セクシャルなトラウマの有無と分析したのはおもしろかった。戦闘美少女へのピグマリオンも。
「戦闘美少女は日本独特のイコン」という主張自体だめ。著者は香港映画を見たことがないのか。香港アクションの原点たる「大酔侠」からしてすでに戦闘美少女ものだし、こうした流れは当然日本にも影響している(志穂実悦子を考えよ)。また四方田犬彦によれば、「戦う女」の物語は東アジア圏にひろく存在しているらしい。こういうとこの詰めが甘いから、オタク文化論の多くが内輪だけのお遊びに終わってしまうのだ。あと結論部は難解というよりたんに意味不明。
非常に面白い一冊。いろいろと前提知識が要り、難しいのは確か。雑誌、同人誌即売会、インターネットその他の媒体が現代に無かったならば、ヘンリー・ダーガーが沢山生まれているかも知れません。「性欲」が「おたく」に直結してるのならば、小学生がコミケに行くことの説明が出来ないかもしれない。斎藤環氏は昨今の「男の娘」ブームに対してどのように考えるのか気になる。ところで東浩紀氏もそうだが、多少高踏的だと感じる部分があるのは何故なんだろうか。
同意できないところ理解できないところ多々あるが、ヘンリー・ダーガーという作家の存在を教えてくれたので感謝している。また、小説とマンガを比較した部分は面白かった。
戦闘美少女の精神分析の
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感想・レビュー:41件














ナイス!
































