ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)
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ウィトゲンシュタイン入門の感想・レビュー(215)
結局デカルトの最強版というだけのことじゃないか。それらの問いは果たして人生に有益なのだろうか。そういう面において個人的にウィトゲンシュタインはニーチェを越ええない。しかしそういう意見でさえも、ウィトゲンシュタインにとっては『言語ゲーム』を越ええないのだろうけれど。
大変な時間がかかった。数行読んでは本を閉じ、立ち止まる。考える。ウィトゲンシュタインに興味を持ち、まずは入門をと軽く流すつもりで取り掛かったのだが、これが当たりだった。これらの問題と関わりを持つ人が本書を読めば、人生が劇的に変わる。そして、その著作、研究書を読み、更に深く吟味したい衝動に駆られるはずだ。ところで、私は大学時代に著者である永井均氏の哲学の講義を受けた事がある。そのとき、この講義をしていてくれたら、と惜しく感じたが、詮無い事だ。月日は流れ、今また出会った。これこそ僥倖というべきものである。
一生哲学を実践したウィトゲンシュタインの本。この世界にそもそも根拠付けられない前提と化しているものがあり、それが言語ゲームの世界をなしているのだという主張が印象的だった。
若年時天才と呼ばれた人でも人間である以上成長する。初めから完成された人間はいない。そのあたりが読んでいて感じ入ったポイント。よし、ウィトゲンシュタインも読まなければ。
像(前期ウィトゲンシュタイン哲学)、言語ゲーム(後期)はそれなりに理解を得られたが、既に指摘されているように、文法(中期)は僕のような哲学初学者には一読では理解し難いものだった。けれど「ウィトゲンシュタイン哲学ってこんな感じなんだなあ」と哲学素人がダイジェストで知るにはうってつけの本かと。
ある思想を後世に伝えるには多く語るべきであるかのように感じるが、語らないことで適切なひとに伝えることができることを知った。このことは前から思っていたことであったので救われた。
前期ウィトゲンシュタイン哲学は比較的理解しやすかったが、中期ウィトゲンシュタイン哲学(文法形式)のあたりが完全に理解できた気がしない。 / 「「形式(=語りえぬもの)」の一致」、「形式」は一致していなければならない・一致によって可能になる、というのが前中後期通じて変わらないところか。
『これがニーチェだ』同様に「永井均の」ウィトゲンシュタインである。誰が書こうともその人のウィトゲンシュタインが書かれざるを得ないが、永井均はそのことにとても自覚的である。私は本書を読む前に永井均の最新の著作を読んでわからない所が多々あり、少しずつ過去の著作に遡っているうちに、ここまできた。そういう永井哲学への関心を持って読んだ私にとっては得る所が大きかった。現在の永井の独我論的な話の根幹にはウィトゲンシュタインがあるように感じた。(続く)
まさに「取り付く島もない(①たよりとしてすがる手がかりもない。②つっけんどんで相手をかえりみる態度が見られない。)」印象で読了。語源:この言葉の語源は、“船で海に出たのはいいが、嵐にあったため、どこかの島に船をつけたい。しかし、島が見つからない“という状況から生まれた言葉なので、「とりつく”島“がない」というのです。ウィトゲンシュタインはこの「取り付く島もない」という言葉をどう捉えるんだろうなどとクダラナイコトを思う。自分にとって「ウィトゲンシュタインの哲学」は無意味。
【★★★☆☆】後期の「言語ゲーム」による「語りえぬもの」理解への道筋が分かりやすい。プレイ(実践)がルール(規則)に先立つこと。現在通用しない規則であろうとも、語った瞬間に思考可能なものに(=ゲームの中へ)なること。だから「沈黙」。/他人の痛みを「感じる」ことは文法規則に則って禁止されている。一方で生活形式が一致していない人(176頁)は「痛み」にあたる概念をそもそも持っていないのであって、我々が「痛み」を表出しない事態の想定とは根本的に異なる。/入門書でありながら難解。著者の批判する解釈にも触れたい。
序文に言われた、問題を共有したとき世界の見え方が変わり人生の意味が変わる、それほどの衝撃を期待して読んだのだが、問題とその捉え方にそれほどの衝撃は感じなかった。それは自然科学あるいは数学をやる上で自分が感じること(限界、語りえぬもの、etc...)、そのままではないか。別の世界にいるのだろうか
「・・・最晩年にいたってもなお、ウィトゲンシュタインにとって、哲学するという営みは自己否定的なのである。それは、結局、それが語ってはならないと主張するところのものを語ることになるからである。彼は本質的な点で『哲学』という言語ゲームの存在を認めなかった。彼自身がやっていることは、あくまでも例外なのである。彼がしているのと同じ種類の他のことを人がするということに、彼は本質的な点で意義を認めることがでかなかったのではないだろうか。まさにそのことの内に、彼の独我論が示されているだろう」。
言語ゲーム、ここに苦悩に満ちた生活からの脱却を図れるキーがあることは何となく分かった。でも、それだけ・・・。著者が一生懸命解説しているのは分かる。でも、自身の読解力と理解力の無さが災いして思考の停滞が起こってしまった。もっと勉強しなければ。
ついに、ついに読み終えました。『論理哲学論考』しか読んでいなくて中期と後期については全くもって知らないまま読み進めました。彼の行きつく先は既に他の万人が行きついていたところであった、と言った内容が印象的でした。
要所要所の思索は共有できるけれど、総論として飲み込むには、やはり難しい。ウィトゲンシュタインの試みは、最終的にどうしようもなく自己批判的な地点に着地することになるということだけれど、それこそがある意味で哲学の本質なんだろうとは思う
1995年刊。ウィトゲンシュタインの前期・中期・後期の思想の変遷の見取り図は得られる。ただ永井氏の歯切れはニーチェを語るときほどよくはない。これを読んで講談社新書のウィトゲンシュタインに移るべきか。基本的に独我論への問いを永井氏とウィトゲンシュタインは共有しているのだと思うけれども、それがいかにして乗り越えられるものなのかにはどちらもいたらない。独我論に対して、いかなる問いが問いうる問いなのか、そこの整理ができていないのかもしれない(もちろん読者たるこちらも)。
前期の『論考』の部分と後期の言語ゲームの部分は分かりやすかったが、中期の文法の部分が自分には少し難しかった。タイトル通り、説明の丁寧さ的にも本の厚さ的にもウィトゲンシュタイン哲学の入口とするには丁度良い本だと思う。
ウィトゲンシュタインと著者の論じる独我論がいまいちつかみづらいのは、自分がそれに興味を持たない(違う世界に生きている)からだろうか。言語ゲームや前記・中期・後期の考えの変遷については丁寧でよかったと思う。
「品位ある態度。開けることができる人だけが気づくように、つまりその他の人には気付かれないように、扉に鍵をかけておくこと」本書は「入門」書といいながら、本書ではウィトゲンシュタインという門に入門することはできない。「開けることのできない人に対しても、少なくともこの扉に鍵がかかってることだけは告げたいと思った。」この態度を、著者は「品位の欠如」としているが、誠実な態度だと思った。次はハートの『法の概念』を読もうと思う。
「これがニーチェだ」がよかったので、本書も読んでみました。論理哲学論考に該当する前期の思想は、他の書籍もいくつか読んでいたのですんなり読めましたが、中期以降の文法や言語ゲームの概念は消化不良。所々例を挙げて説明されているのですが、しっくりきませんでした。著者である永井先生が、野矢先生の校閲に恐れをなしたという冒頭の記述で、ウィトゲンシュタイン研究界の人間関係を垣間見た気がしました。
入門書としては親切な部類(のような気がする)しかしながら、のみこめない部分もあったなあ。でも、わからないことはわからないこととして、受け止めておけば良いと思った。わからないことは考えるから。時間を置いて再読したら感想が変わるかもしれない。
「自分の哲学が生半可に理解され、学生たちが小手先の巧みな思考を身につけていくことを、彼(ウィトゲンシュタイン)は嫌悪した。才気走った連中が深い動機もなしに哲学の議論をする際に特有の、あのへらへらした雰囲気に、彼は我慢がならなかった。」
文法のところまでは(永井氏の「私」とは何かという唐突な脱線は除いて)すっきりした感じ。定義は言語というツールを使って行われるから言語の使用方法、いわゆる固有の文法、用法として言語に付着しているものを外部から改めて(言語なしで)定義することはできない。では晩年の「信ずる」こととは何か?が錯綜している。永井氏の「私」への拘りも理解の邪魔をしている。論理哲学論考を読んでみようと思う。
「かたりえないものに対しては、沈黙せねばならない」
難解なウィトゲンシュタインの思想を、永井氏は極力分かりやすく表現されていて、良書だと思います。(私には難しいですが)現代の先端の心脳問題ともリンクしていて、ウィトゲンシュタイン…先鋭的です!!
ヴィトゲンシュタインはよくわからなくて、いくつか入門書をあさってみたけどその入門書がまたわからなくて・・・。たどりついたこの本は一番良かった。永井さん自身の思い入れが入りすぎているのかな?とも感じるが、のめりこめる本。
え?なにこれ?むずっ!ウィトゲンさんの生い立ちと言語ゲームが辛うじてわかった気がしたくらいで、表象のとこはかなりあやふや。でも多分、わかれば相当面白いのはわかった。そしてそれは俺の力では語りえぬことだ。論理的理由ではなく能力的理由で。
永井とウィトゲンシュタインはよく似ている。二人とも最初はつるつるの論理的な氷の世界を求めた。でも、その世界はあまりに滑らかで歩けないことを知った。歩くためには摩擦が必要なのだ。そこで二人とも摩擦のある哲学をはじめた。もっとも永井はルートヴィッヒのように小学生に体罰をして村から逐電するようなことはしてないが
ウィトゲンシュタイン入門の
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感想・レビュー:47件














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