翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)
翻訳夜話2 サリンジャー戦記を読んだ人はこんな本も読んでいます
翻訳夜話2 サリンジャー戦記を追加
翻訳夜話2 サリンジャー戦記の感想・レビュー(198)
評価=3:キャッチャーがどうゆう背景から生まれた小説なのかが、良く理解出来た。私もキャッチャーを何年前かに読んだが、大人になってから読んでもあまり面白く無かった。中学の頃に読んでれば私の人生も変わったかも。
翻訳を通しての小説とは何かを明らかにする、というと大げさだけど膝を打つことも。 主人公の兄妹が主人公の投影だという読み方、主人公は16歳でなければいけないこと、反社会ということだけでもないこと。 あと、主人公を物語の中を走らせるということは、スラムダンクの井上雄彦も言うてたなぁ。
卒論で『キャッチャー』を扱ったものの提出後になんとなく気になったので読んでみた。文学作品を「この物語はこういうものだ」とか決めつける事を疑問に思う。だから、あまりこういった本は苦手だけど、思った以上に楽しめた。卒論書き始める前に読んでいればよかったと心から思う。
『キャッチャー』を読んだその流れで手に取った。サリンジャー自身についての知識を持ち合わせていなかったのと、まだ物語が鮮明に残っていたため、非常に興味深くおもしろく読んだ。この本を読んで『キャッチャー』再読したら、きっと一度目とは違う角度からこの話を見られるんじゃないかな。
再読。『キャッチャー』は社会の偽善性や大人の価値観に立ち向かう話として受容されてきたが、この対談ではホールデンという一人の男の子の内面的な葛藤や自己存在をどこにもっていくかという闘いについて書かれた話としてこの作品をとらえている。イノセントな生き方と非イノセントな生き方の間で生きているが、そこにも長く留まることができずに常に移動が強いられるホールデンの姿がカポーティ作品に登場する人物との比較の中で語られている。その哀れな姿は残忍な戦争を体験したサリンジャーと重なる。
以前に読んだことがあったのだが、サリンジャーを洗い直すにあたって再読。前に読んだときも面白かった覚えがあったけど、他人が同じ小説をどのように読んだのか聞くのはやっぱり面白い。二人の会話のなかで出てきた本で読んでみたいと思えた本がチラホラあって良い収穫だった。こうやって読みたい本がどんどん増えていくのっていいもんだなあ。昔『キャッチャー・イン・ザ・ライ』って聞いたときは世の中のインチキ(嘘)も包み込むように捕まえるって意味かと思ったんだけど、ライはライ麦のライだったなんてね。
短編小説案内の時も思ったことだが、やっぱり作家さんの読みの視点の鋭さ、多さには驚かされる。キャッチャーを読んでからしばらく時間が経っていたので、もう一度読み返してからこの本も合わせて読み返そうと思います。
前回読んだときには「キャッチャー」を読んだ直後だったこともあり、サリンジャーがどのような幼少期を送ったかなど興味深く読めた。今回は時間も空いてしまい、もう一度「キャッチャー」を読み返さないとのめりこんでは読めない本かもしれないと気づいた。それくらい分析に熱がこもっている。確かに読者を熱くさせる本だと思うし、翻訳しようなどと思ったら原文に引きずられすぎないように頑張らなければいけないパワーがある作品だ。それをあんな軽やか(に見える)な小説に仕上げた春樹さんは、やはり凄い。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を訳し下ろした春樹さんと、翻訳の相談相手の柴田さんがサリンジャーについて語りまくる対談本。文学者たちの文学トークをのぞかせてもらってるような、サリンジャー好き、アメリカ文学好きにはなかなか瀟洒な一冊。「キャッチャー」という作品に答えはないだろうと思うけど、このお二方もそう感じつつついつい語らずにはいられない、という雰囲気が面白い。「キャッチャー」の世界がまた一段広がって見えてくる。
面白かったです。一つの作品を翻訳するということがあとここまで深い作業なのかと感嘆しましたし、読者としていかに作品と向き合うか考えさせられました。それと、この本を読んで『ハックルベリーフィンの冒険』もちゃんと読もうと思いました。やはりアメリカ文学と日本文学は根本的に違うようです。
社会に反抗する純粋な少年ホールデンの物語という固定されたイメージが自分の中にあって、ほとんどその部分にしか焦点が合っていなかったのが、二人の話を聞くことによって少し俯瞰で眺められるようになった気がする。柴田元幸の「ホールデンが"君"と親しげに言えば言うほど、そこまで彼が信頼を寄せられる"君"はどこにもいないんだろうなあと思えてきて、むしろ切なくなってきます」という発言や、フィービーのある種の後の姿がフラニーで、そこでフィービーはホールデンと同じ問題を抱え込んでしまっている、という読みがすごくしっくりきた。
小説そのものよりも、その小説を心底愛しているように見受けられる複数人が、作品をめぐって言い募るのが、どうも好きで、優れた小説はやはり優れた独白であって、優れた対話はやはり優れた対話であるという、ごく当たり前のことを改めて考えさせられた。
再読。村上さんの訳本読了後に読んだ前回とは違い、今回は原書を読んでいる最中に読んだので、少し違った角度から楽しむことができた。原書読了後にもまた読みたい。
「ライ麦」は未読だったが、村上春樹訳につられて「キャッチャー」を購入。“村上訳”を楽しんだ面が大きかったが、本書を読んで改めて“サリンジャーの”「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に目が向いた。戦争体験を直接書かなかったサリンジャー。そういう情報を得た上で読み返すと、自称「嘘つき」であるというホールデンの痛みや、かすかな望み、空虚が前よりも切に感じられる。新書で薄いけれど、村上春樹の思いや小説論が聞けてお得感たっぷりだった。柴田氏の知的遊戯はさすがです。
ひとつの作品を一冊の本が出るくらい語りつくせるってすごいことだと思うし、キャッチャーがそれだけ懐の広い作品だということに改めて驚かされる。しかも単なる作品を切り刻んだような解説本ではなく(イエロー○ージみたいなやつ)ではなく、作品に対する愛があふれてて、もう一度読んでみようという気にさせられる。著者の解説とは違うけど、自分は早く大人になりたいなと真剣に思った次第です。
完全にサリンジャーオタク本。キャッチャーを読まなくちゃならないね、これだけ熱く語られると。子供の頃読んだような気がするけれど全く覚えちゃいない。先に読んでおけばよかったなあ。何言ってるのかちんぷんかんぷん。へー、そうなのー、で終わっちゃう(笑)
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、本当に僕にとってくるものがあるというか残る小説だったので本作を読んでみた。訳者たちは、それなりに分析的な見方やサリンジャーとホールデンの重ね合わせなどを行っているが結論としては「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は本当に素晴らしい小説であると述べている、まさにその通りだと思った。「「キャッチャー」を読んだ多くの青年たちが「自分は孤独ではない」と感じた」という村上春樹の言葉が印象に残った。
村上春樹にとって、『キャッチャー』を訳すというのは、『ギャツビー』を訳すのと同じくらい大きな事件だったんだなー、とほんのり思った。前作『翻訳夜話』でも言っていたし、本書の中にも出てくるが、翻訳にあたっては自分のカラーを出したくない、できるだけニュートラルにいたい、というのが翻訳家村上春樹のスタンスだったはずで、それが本書で語られるところでは、『キャッチャー』では村上春樹自身の読みが、普段よりも翻訳の方向性を決定していたように見える。
野崎訳、村上訳両方読んだあとに再読して、よりホールディンへの村上春樹解釈に同感できたし、時代で変わるものと変わらないもの、そんなニュアンスがわかった。いつかサリンジャー原作を英語で読める日がきたらいいな。その後またこの解説書を読もうと思う。
村上春樹の小説についての思いやキャッチャーがどれだけ人々に与えた印象をもたらしたかを知るには一番よい作品。対談内容が深すぎてついていけない場面も多かった。柴田元幸のcall me holdenはキャッチャー後の様子を何の違和感も無く、ホールデンが語っているように読めて非常に面白かった。
村上春樹が他人の著作をどう読むかというだけでなく、自らの小説にどう生かしたかをこれほど詳らかにしたものは他にないだろう。フィービーを実体のある妹ではなく自己を投影した象徴(ゴースト)であると言い切る彼自身の作品、例えばノルウェイの森の直子等にキャッチャーの構成が反映されているのかと思うと興味深い。それを意図してはいないが、若者固有の孤独と反発心(イノセンス)が如何にキャッチャーにリンクし易いかと懇切丁寧に説明がなされるので、年頃の、または引き籠りの子を抱える親にとっては有用な教育書となり得るのでは?
ホールデンを、そしてサリンジャーをより深く知るにはベストな一冊だと思うよ、まじ。でも正直さ、いくら好きな本でもここまで踏み込んで解釈する必要あるのかなって思っちゃったりもするんだよね。別に自分なりの解釈で楽しんだっていいじゃん、なんてね。名作とはいえ、所詮は単なる創り話なんだからさ。もっとリラックスしてエンジョイしようぜってね。
間違いなくいつか読み返すことになるだろうと僕に確信させた本。『キャッチャー』の持つ神話性は、村上春樹のそれと一緒。だから世界で愛される。僕も含めて、すべての人の中にホールデンはいるのだろう、そう思った。
また『キャッチャー』を読もうと思う。
ライ麦を読んだあとには必読の一冊といってよいだろう。50年代について、サリンジャーの心理の問題について、イノセンスや反抗といった言葉の制度化について。またなによりも村上春樹が自身の小説論を語るのが嬉しい。
とても濃かった。。。アカデミックというか、心理学的、哲学的、歴史的側面が強いというかただただ脱帽でした。村上春樹さんという翻訳家は、いろんな意味でProfessionalでした。
そうか~、サリンジャーがユダヤ系ということを考えずに読んでしまっていたから、それを踏まえて読んだらまた違うんでしょうね。まさに「語りつくす」。村上キャッチャーに収録できなかったあとがきと、なんと言っても柴田氏のCall Me Holdenが最高!ここが一番面白かったです。 ホールデンがハックを読んだらどうなるか?の感想、考察がツボでした。それわかるー。
僕はつくづく思うのだが、本当に「日本語」のことを考え、「読書行為」というものを考えているのは「翻訳」という自己の言語構築を解体できる作業にふれることのできる英文学専攻の人間なのではないだろうか。日本文学専攻の人間だからといって、日本語に通じてるとかいうと、むしろ「逆」なんじゃないかと思ったりするんだ。「翻訳」という行為を考えた/考えてしまったいまにあっては。翻訳ほど、「母語」と「読書行為」を脱構築していくものもないんだ。でも、ホールデンみたいにしゃべりちらかすのはここらへんでよすことにするかなといいつつも
おもしろい!まさに「語り尽くす」という言葉がよく合っている。野崎訳を愛するあまり、村上訳には抵抗があったのだけれど、この機に読んでみたいと感じた。さいごのCall Me~は、そのアイデアの是非はおいといても(ちょっとfanficっぽい)、よかったです。柴田さんの書いた小説も読んでみたくなった。
面白すぎてさくさく読んでしまった。「キャッチャー」は多くの青年に影響を与えた偉大な作品だけれども、その影響は作家であるサリンジャーも縛ってしまったということが印象に残った。世界中の人に読まれる大きな作品をかくと言うことは幸せなのか不幸なのか。
翻訳夜話の続巻というよりも、サリンジャーを巡る考察。ホールデンだけでなく、妹の存在も「君」もまた自己を投影したものだという視座が興味深かった。自分を描いたキャッチャーがこれほど読まれ続けていることも、サリンジャーにとっては社会へのコミットのきっかけにはならず、かえって社会との断絶を招いたのはどうして?なんて、サリンジャーの隠遁生活の末の訃報を聞いた今はやるせなくもある。
まず、「ライ麦」と「キャッチャー」を読むに当たって、ホールデンがサリンジャーの性格をかなり濃く投影されているという点に気付けなかったことが、二人の指摘にあった多くの点を見逃していることにつながっていると思う。それと、ホールデンの兄弟の存在についての考察もおもしろかった。それと、ホールデンは結局成長したのかどうかについて、私は、ラストで少しは成長したという風に感じたのだが、二人の解釈はそうではないということで、確かに説得力があるけど、やはり彼は成長したのだと(また挫折するかもしれないが)思いたい。
あの小説が「キャッチャー」「キャッチャー」と連呼されていることに非常に抵抗を感じます。自分だけは今後も「ライ麦畑」と呼び続けるぞ!とひそかに決意。
再読。村上春樹と柴田元幸の対談が興味深かった。ここでは『キャッチャー』を「社会に反抗する物語」ではなく「どこにも行けない少年の物語」と捉え直している。悲しいことにホールデンは経済的、社会的、肉体的、精神的にどこにも行けず、軽妙な流動性、イノセンスな関係性のみに価値を見出していく。一方、村上が『1Q84』に繋がる重要なテーマを言及しており、『キャッチャー』の翻訳は間違いなく彼に影響を与えたことが分かる。イノセンスに傾倒せざるを得なかったホールデンも『1Q84』を読めばあるいは救われたのかもしれない。
なぜ『キャッチャー』に惹かれるのか、今まで説明できなかったけど、この本の中で村上さんと柴田さんが代弁してくれような感じ。読んでよかった。そして、『キャッチャー』をまた読みたくなってきた。
翻訳夜話2 サリンジャー戦記の
%
感想・レビュー:55件














ナイス!





























