アメリカの鱒釣り (新潮文庫)
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アメリカの鱒釣りの感想・レビュー(238)
久しぶりにとても読めなかった。訓練の問題なのか、それとも先天的なものなのかわからないが、30ページに1回くらいしかおっ、と思えなかった(ただ、マヨネーズだけでかなりの高評価でもある)。 かつてバーセルミも無理だったので高橋源一郎あたりで練習してから出直そうと思う。
全米をひっくり返したくなるほどわけがわからなかった。読了できなかった。半分読んだのち、解説とあとがきを読んで、本を閉じ、裏表紙に「アメリカの鱒釣り」と墨で書き殴ってやった。そうしてわかる日が来るのを待つことにした。
鱒釣りから見るアメリカ。あるいはアメリカとは単に小道具で、鱒釣りこそこの小説が本当に書きたいものかもしれない。本当に書きたいものかもという言葉に意味があれば、だ。マッチョなアメリカから離れて、緩やかな川、鱒たちの生命、落伍者たちの哀しみをアイロニーとユーモアを込めて感じさせてくれる。幻想的だからこそリアルな軽い語り口は読み手に全くストレスを与えることなく、しかし重要なインパクトを残す。訳者の注と柴田元幸の解説も世界の余韻を広げてくれる
アメリカの文化的な部分によくわからないところもあったが、家族で旅する姿は今も昔も良いよ。彼が釣りを心から楽しめていたことを願わずにはいられない。
飄々とした語り口。奇想と脱力。好き勝手やっているように見えて、憂鬱や叙情が見え隠れする文体。この小説は、意味や教訓に捕らわれる事の無意味を教えてくれる。しかしながら、何だかな、というのも正直な感想。いちいち引っかかるというか、ノレない(分からない)所が多々あった。具体的にいうと、他でもない柴田元幸さんが褒めてる「ちんちくりん」とか。ところで「鱒」は「白鯨(モビー・ディック)」のアンチテーゼなのかな?と思っていたら、大体合ってた模様。あと柴田さんの解説は必読。
翻訳の勉強をしていた頃に初読したものです。確かに非常に優れた翻訳だと思うけれど、母国語であれば感じられる「何か」絶対に解り得ない部分があるに違いないと思う。象徴 断片 浮遊 自浄 静寂 軽妙。他国人の私は、可能な限りの「苦さ」を味わってみようと思う。ただひたすら哀しかったブローティガン最後の著作の「不運な女」への第一歩だと意識しながら。
断片的な話が羅列されている。共通するのは「アメリカの鱒釣り」という単語がとにかくよく出てくることだ。そして「アメリカの鱒釣り」という言葉が明確な意味を持たないまま繰り返し使われ、暑さで頭が湯だったような感覚になる。ただ、それは心地の良い感覚であって、それがこの作品の根底にある自由さと相まって、実にリリカルな作品になっていると思う。 アメリカがしあわせだったころの話だと思う。
ストーリーはない。途中からストーリーを求めてはいけないのだと思った。言葉の一つ一つを頭に映像として映しながら読むと、すごく楽しめた。
なんといっても『アメリカの鱒釣り』の「きもちよさ」といったらない。ユーモアのセンスや哀愁、パロディ、弱者へのまなざし、そんな数々の「アメリカ」を絶妙なバランスで紡ぎきったほとんど奇蹟のような作品。考えてみれば当時はビートの爛熟期、べっとりねたくりまわした小説群の中の『アメリカの鱒釣り』である。ブローティガンはそんな〈アメリカの鱒釣りちんちくりん〉を優しくすっとんきょうなことばで救いだすと同時に、アメリカ文学史クリークを溯って巨大な鯨をも解体しちまう離れ業をやってのけたのである。ブラボー!ブローティガン!
幻想的な言葉で語られる世界は痛いほどにリアルで、作家の感性に飲みこまれるかのような錯覚に陥ってしまう。柴田元幸の言葉を借りれば、確かにここには「解放」がある。文学は自由で、奇妙で、面白いものであることを改めて教えられた。「アメリカの鱒釣り」は現代文学のあらゆる場面でその姿を見せ、今なお私たちを楽しませている。また、ブローティガンの描き出すみずみずしい世界観が見事に表現された素晴らしい翻訳にも注目したい。
まるで上質な詩を読んだような感じ。意味があるけど意味はない。意味はあるけど意味はない。消臭剤の匂いが新聞読んだり、電話ボックスのようなクリークがあったり。そうか、文学ってこんなこともできるんだ! 暖かくてユーモアに富んだ文章だけで物語が立ち上がる。そんなことこの歳になってやっと知りましたよ。それにしても、当時は斬新だったんだろうな〜、この文体。訳者の力量に頭が下がります。この訳者が書いたブローティガンの伝記が読みたくなりました。
“わたし”と“かの女”と“あかんぼ”と、アメリカの鱒釣りをキャンプで旅しよう。アメリカの鱒釣りは、広くなったり、小さくなって車椅子で酒浸りになっていたり、既に失われてしまっていたりする。鱒釣り用擬似餌鉤『最後の晩餐』なんて発想にビックリ。柴田元幸氏の愛情溢れるあとがき(?)で本を閉じた瞬間、また開きたくなった。
東日本大震災後、本が読めなくなった。世につれた文章はもちろん。好きな江戸や昭和などの歴史の本も、サブカルも、文学も。そして「アメリカの鱒釣り」が強烈に読みたくなった。詩的なドヤ顔自己完結的でなく、現代批評的でなく、ちょっぴりせつなくもユーモアがあって、でも読む快楽があって、なんかじんわり心が安らぐ。人生の途上で、なんどか回帰する本になりそうだ。
再読。鱒釣りについて語りながら、鱒釣りを取り囲む環境、そして自然や人の生き方など、すでに失われてしまったものを象徴的に描いている。その描写は終末的な雰囲気を漂わせているが、それなのになぜかドライで、悲壮感にあふれているわけでもなく、物質主義や文明に対する批判の調子がこめられているわけでもない。それは、新しい生き方への模索だろうか。 それでも、作者は、富める者たちの大理石の墓碑銘がいつまでも残るのに貧しい人々の木の上の名前はいつか消えてしまうのを悲しみ、死者の貧しさには心を乱されるのである。
表紙に惹かれてなんの予備知識もなく読んだら圧倒された。なんだこりゃ。たぶん理解しようとした瞬間、負けだなと思ってひたすら文章を追った。ちょっと、もう一度読んでみようと思う。
「いつかは、鉄道の駅の隣で熱い鉄板の上に卵を割り落す眠たげな即席料理のコックのような手つきで、めぐりくる季節がこれらの木の上の名前を消してしまう。いっぽう、富める者たちの名は、大理石のオードブルに空まで届く洒落た小路を跑足で行く馬たちの姿のような書体で刻まれて、いつまでも残るのだ。」
一度目でわかろうと思わない、けどいつか何かがわかるようになればいいな。
...まるで永遠の59秒目みたいだった...
なんて文章いったいだれが思いつく?
この本を私が理解するには、文学についての知識もそれ以外の見識もまったく足りないみたいだ。さっぱり分からない。でも、この本の底に流れる、諦観、希望の名残、そしてそれに対するなんらかの癒しのようなものはなんとなく分かるような気がする
はぐらかされているような、翻弄されるような。それでいてイメージが鮮烈に残ってる。ブローティガンの世界観、大好き。原文知らないけど、藤本訳もすごいんだろうなあ。柴田元幸の解説にもあったけど「アメリカの鱒釣りちんちくりん」なんて他に誰が思い付くだろう。
「アメリカの鱒釣り」文法で書かれた、言葉と言葉、イメージとイメージのポップなアバンチュール。奇妙に頭にこびりつく作品なのだが批評するのが難しい。
自分の中に面白いと思うツボがあるとして、そこから離れた所から、それも思いがけない方向からくすぐられる感じがする(>_<)離れた所からでも何故かちゃんと届くのだ。淡々とした文章の集まりだけど、意味や文章の繋がりも、エッ?と思いもかけないカードが切られる感じで、ブッと吹いたり、しんとした気持ちになったり、やられた…!と痺れたり。なんだか癖になりそうだ。
文庫本で再読。鱒に込められたメタファーが更々と紙面上を泳いでいく様を目で追うことは、読むという行為を別の次元に引っ張り上げてくれる。一度に読み通す本ではないね。場所を移動しながら釣り糸を垂れるように読むのが楽しい。文庫本サイズになったのが何より嬉しい。
はじめて言葉を覚えだした時のことを思い出した。それは僕にとって素晴らしいことだった。意味が無いわけではないのがなにより素晴らしいが、BOTの言葉を楽しめるなら、この本にも充分感動できると思う。おそらく原理は一緒だろうから。
アメリカの鱒釣りの
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感想・レビュー:75件














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