フラニーとゾーイー (新潮文庫)
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フラニーとゾーイーの感想・レビュー(823)
サリンジャーはよく多感なteen ageの頃にお誂えと言われるが、大人になってからも楽しめる。なんせこれだけ映像として記憶に残る小説も珍しい。描写がしっかりしているのにくどくなく、説明じみてもいない。読み手の個々に浮かぶ情景の精密さ、美しさにより、それまでの読み手自身の生き方が試される作品だと言える。気を引き締め向き合わねばと思いきや、「フラニー」では会話の噛みあわなさにハラハラ、「ゾーイー」では会話の掛け合いっぷりにクスクス。多岐に楽しめる作品。★★★★★
・雨が降りそうだというだけで泣きそうになる感受性・「――、でもいちばんいけないことはね、自分で自分がどんなに退屈な存在かってことを知っていることなのよ。わたしがみんなの気持ちを暗くしてる、感情を傷つけてさえいるってことが、自分でちゃんとわかっているのよ ――」答えがしりたい。今も昔も。ないのかもしれない。まどろっこしいのでちょっと読みづらい気がする。知りたいことが書いてあった。答えがほしい。……本当は少し前に読んだ。その時書いたメモには、エゴの発揮、とあった。
見えなくてもいいものばかりが目について、エゴだらけに見えるこの世界に、少しだけ救いを感じられるラスト。正直、読み飛ばした部分も多かったし、「わかる!」なんてとても言えないけれど、フラニーに向けられるゾーイーや母の愛が感じられ、時々はっとする言葉に出会ったり。「それにしても活動したほうがいいぜ、きみ。回れ右するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ。ぼくはいい加減なことを言ってんじゃない。この現象世界には、くしゃみする暇さえないようなものなのさ」
フラニーの感情的な気持ち、よくわかる気がする。レーンとの会話のかみ合わなさが良かった。理詰めしてほしいんじゃない。だから、私にはゾーニーの話の運び方もちょっと論理的すぎて冷たいように感じる。フラニーもあいつは破壊的すぎるのよ、とか言ってたし。解説読んで、ふむふむあれは愛情なのかと。私はやっぱり気分で生きている女の子なんだろうな。
精神的奇形による、精神的畸形のための精神的奇形児達の優しい愛の物語。 ゆがんだ愛情表現と、その中にある優しさと、それに気づけない人と、気づける人の話。 やはり、精神的奇形児の傍らには、精神的奇形児しかいられないのだろうか。 つまり、レーンにフラニーはもったいない。
実家から発掘。「新潮文庫20世紀の100冊 1961年」なるカバーがされてる。たしかこれ、パレットくもじの上の本屋で買ったよ。16歳のときに。 ストーリーはほとんど忘れてたけど、かなり影響受けてる。文学や大学への虚妄な憧れも、巡礼への興味も。この小説の雰囲気で色眼鏡。おかげで苦労多し。 サリンジャーやべえ。いまさらながら。 『太っちょのおばさま』はグラース夫人なんだけど、フラニーもゾーイーもそれに気づけてない、もしくは、認めていない、って解釈したんだけど、これでいいのかな。生きるって苦しいね。
ライ麦、ナイン・ストーリーズときてこの一冊を読み、やっぱりサリンジャーは僕にとって特別な作家だと思った。青春の懊悩と焦燥、と裏表紙の解説にはあるけれど、フラニーが陥ったエゴに関する問題は人間の根っこの部分に通じる命題で、そこから生まれる葛藤は若者の感受性だとか関係なしに人間ならばきっと一度はぶつかるものなのだ、たぶん。そして僕はその衝突を生きているかぎり忘れないでいたいと思っている。何度も読み返したいな、原書にも手を出したい。
連作二編。『フラニー』と『ゾーイー』が収録されています。ちなみにフラニーとゾーイーはグラース家の兄妹。フラニーが妹ですね。で、『フラニー』と『ゾーイー』の最初のほう……手紙を読み始める辺りまでは、ちょっと、どうなのかな、と思っていたのですが、そこからは良かったです。『フラニー』だけ読んで置いていたのを後悔しつつ。
現実逃避の手段として、読書をする傾向がある僕が、大学受験が迫っている中読んだ。
しかし、詳しい説明は省くが、これを読んだ後、そんな現実逃避をする自分でも、なんだか救われる気がした。
中二病を超えた高二病?もしくは大二病に患った妹フラニーを言葉で説得する兄。かなり困難な冒険だと思われるがへこたれず取り組む兄ゾーイーの教養と弁舌が半端ない。
『フラニー』と『ゾーイー』のどちらも特に何かが起こっているわけではないのに会話だけで物語を作り上げている。『フラニー』単体では少し弱い気がするが、『ゾーイー』はそれだけでも成り立つような凄い作品だと思う。サリンジャーは他者に対して大きな不満を抱いていて、でも自分自身にそんな不満を持つ資格が果たしてあるのだろうか、と思う葛藤がこれでもかというくらい伝わってくる。きっと周りが見えすぎるうえに、考え過ぎてしまうんだろうなあ。
あんたはね、人を好きになるか嫌いになるか、どっちかなんだ。好きだとなると、自分ばっかし喋っちまって、誰にも一言だって口を入れさせやしないし、嫌いだとなると―たいていは嫌いになるほうだけどさ―こんどはもう、自分が死んだみたいに黙りこくって、相手に喋らせるばっかし。そうしちゃ落とし穴にはまりこませる。/ぼくは汽車に乗るのが好きだからさ。結婚したらもう、窓際の席に座れないだろう。/第一にだね、きみが、自分じゃなくて他の物とか人とかをとやかく言い出すときには、きみのほうがどうかしてるんだよ。消化不良です。
おかしい。全然おもしろくなかった。ライ麦にあれだけハマったのに。その理由は目星がついており、おそらく共感がなかった為だと思う。 ライ麦はホールデンに痛いほど共感した。これはゾーイーにもフラニーにも共感できなかった。だからこの本のおもしろみは共感でなく、他の部分にあるのだな?とにらみ、他の人のレビューを読みあさっている。
フラニーの自意識故の葛藤と芯が折れてコーティングしてある部分は壊れそうになさそうな脆さに思わず、同感してしまいました。普通に暮らしていたのに突然、理由もないのに心がバラバラに分離しそうで気持ち悪くなる時は誰でもあると思います。そのため、それを察せず、自分の論文など自分勝手な話を続けていたレーンには憎悪を感じました。ゾーイもレーンと同じように理屈めいて見えるけれども根本的に違うのは上っ面だけで論をこねくり回しているのではないという点でしょう。
おもしろかった。最初はややこしい言い回しに戸惑ったが、慣れてくると洒落ていて痛快に感じた。フラニーの懊悩には共感できる部分があったため、それに対するゾーイーの言葉がビシビシと刺さった。ピンとこない、よくわからないところは多々あったが、満足。登場人物に愛着が湧いた。
ぼんやり文章を眺めているうちに読み終わってしまった。ナイン・ストーリーズと良い、サリンジャーは気を抜くとあっという間に意味消沈してしまう。いつかまた再読しよう。
巧みな言葉遣いがいい。ゾーイーからしかられ励まされた、という気持ちになった。つべこべ言わずにやるべきことをやる、それが精神を病まずに生きてくすべなのだが無批判に唯々諾々とやるのは性に合わないと、つべこべ
虚栄について扱った小説が読みたかったので再読した。人物の細かな動作と心の動きが緻密に絡み合う文章が凄い。文章のみだと私の寡聞な読書遍歴の中で一番好き気持ちいい。繊細ナイーブなフラニーがかわいい。
初サリンジャー。ゾーイーの物言いは洒落が効いていて、彼の人間性をそのまま表したかのよう。行動というよりは台詞だけで、登場人物を描き出すことが出来るのは凄いことなんじゃないかと思う。
グラース家の天才を描いた連作より、『フラニー』と『ゾーイー』が収められた文庫。ひたすらに人物の会話が続くが、それらの人物たちの視線の先にある本、ポスター、聞こえてくる音楽、座っている椅子の感触、手にしている葉巻、これらの細かな描写によって、人物と同じような体験を五感で感じることができる。しかし、会話の内容はキリスト教、東洋哲学、文学など、難解な内容が続き、不学な私には、リアルに伝わる人物たちの物質的な感覚と抽象レベルの内容のわからなさのギャップが不思議な感じだった。次はシーモアの話を読みたい。
サリンジャーで度々書かれているグラース家の7人兄弟の末っ子の「フラニー」と、下から2番目の「ゾーイ」の物語。内容はほとんど、二人の会話で終始する。妹を慰めようとする兄ゾーイは、あの手この手を使って説得を試みる、宗教的な話も多く出てきて少し難解だが、それは、長男のシーモアの影響を多く受けている。最後の数ページまで、ずっと平行線のまま、もうページがなくなっちゃうよと思った最後にゾーイは、フラニーが尊敬するシーモアの言葉を使った。この部分が鳥肌もの。「太っちょのおばさま」でない人間は一人もどこにもおらんのだ。
無気力ではないけれど、あの自意識苛まされるフラニーがひどく自分っぽかった。だからフラニーの主張をすんなりとそうかもしれないと受け入れてしまったし、逆にゾーイーの主張が身につまされた。
周りの状況と自意識の溝にはまってしまったフラニーの「そうじゃないの。そうであって、そうじゃないの。わかんないわ」という、相手にはそういう風に言うしかない台詞が苦しくも胸にくる。そのフラニーを立ち直らせようとするゾーイー。あれだけ身だしなみを整えた後なのに「豚みたいに」汗をかきかき、百万言を費やし、果ては別人のフリまでする様子は、言葉はおかしいが名勝負だと思う。心と心のぶつかり愛。「キリストその人にほかならないんだよ、きみ」とは言うけれど、特定の宗教に限らず普遍的なものが「太っちょのオバサマ」にはある。
このへんちくりんなマドラを、どうしてどこへでも持って歩くのか、自分でもわかんないの。二年のときに、とってもダサイ男の子がいてね、わたしにこれをくれたの、誕生日のお祝いだと言って。すててしまおうと思うんだけど、わたしにはどうしてもできないのよ。きっとお墓の中まで持ってゆくわ。
『何がエゴで、エゴでないかについては、神が最終決定権を持っているんだ。』 『俳優の心掛けるべきはただ一つ、ある完璧なものを‐他人がそう見るのではなく、自分が完璧であると思うものを‐狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。』 『「太っちょのオバサマ」でない人間は一人もおらんのだ。』 『愛の限りをこめて フラニー キスキスキスキスキスキスキスキス』
フラニーとゾーイーの
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感想・レビュー:176件














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