ヘヴン
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ヘヴンの感想・レビュー(1921)
最悪の終わり方ではないのに、読み終わったあとなぜかやるせなさが残りました。主人公がいじめや心境について淡々と語るので、余計に生々しさを感じました。
最悪の結果に終わらなくて良かった。本当の強さとか弱さとか、そんなの自分だけのもの。それって、傷みじゃないはず。私はそう信じたい。
どうにも納得がいかなくて再読。どうしても百瀬とコジマに負けたくない。二人とも間違った事は言っていないのに何か違っている。そう思って読むがどちらの事も完璧には否定できず…。結局僕は辛い立場に立ち続けるのだけど、それでも世界を美しいと思えた事は救いだ。
「僕の目からは涙が流れつづけ,そのなかではじめて世界は像をむすび,世界にははじめて奥ゆきがあった.世界には向こう側があった.」何だかヘコんだ気分のときには暗い小説を読むとなぜか落ち着く,気がする.
印象としては、歯ーやちちらんに比べて薄いなと。平均的に。ヘヴンは濃いとこはすんごく濃いけども、やはり長編だからか。話自体は、まぁ、まぁ、といった感じ。で、批評しやすい?とか思った。あくまで文章表現のレベルで、だけれども。でも、それなりに要素の配分なんかがうまい具合で、さすが未映子さんでした。
いじめる側といじめられる側。その思いの違いに愕然とくる。百瀬はいっこも全く正しくないけど事実。いじめてる方にとっては何ともないこと。日常のスパイス的な感覚なんだろう。いじめられた方の痛みを理解できないことをかわいそうだと考えるコジマ。受け入れる強さ的な考え方に違和感を持ちはじめる僕。お母さんのいうように「目なんてただの目」仲間にしるしなんて不要。永遠に終わらないと思える絶望的な状態も、必ず変えれるのだから。
コジマと百瀬は両極端で穿っている。けど二人の語るヘヴンの意味は同じだ。僕らは二人が語るどちらとも言い様の無い世界でその磁場に身を捩りながら、何か信じられるものを見詰めて生きていかなきゃならない。その辛さをこの小説は真っ直ぐに突き付けてくる。痛くて辛いけれど、深みのある物語だった。つらぱみん。
耐える強さも必要だとは思うけれどコジマの強さはなんだかこちらからみているとなんかもやもやする。僕が最後に何かが変わったように、コジマも違った救いがあればいいのになあ。コジマと百瀬、二人の言い分にはわかるようなわからないような。いじめって実際なんでしょうね。何が始まりで終わりなのかわからない。
うわっ、さっきまで軽いのばかり読んでたので、ギャップに心が悲鳴をあげそうだ。なんでコジマがそう繋がるのか、私にはわからない。
*「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。」例えここから逃げたとしても何も変わらない。ここに全てが存在しているのだ。百瀬の言葉は心に突き刺さる。できるかできないかの違い、ただそれだけなのだろうか。誰だって自分の都合でだけもの考えて振る舞っているのだろうか。一瞬、事実なのかもしれないと思ってしまうが、…違うと信じたい。“僕”はヘヴンを見つけて希望を見出だしたエンディングだったが、コジマはあのあとどうなったのだろうか。彼女のヘヴンはどうなったのだろうか。
思わずドキッとする台詞が何度となく出てきて、とても哲学的。特に主人公の僕と百瀬のやりとりが圧巻。百瀬は『カラマーゾフの兄弟』のイワンのように理論こそ全てと達観しているさまが、すこぶるかっこいい。主観は人それぞれだから、お互いを本当に知ろうと思っても無理なのだろう。百瀬と僕は分かりあえなかった。分かりあえそうだったコジマとも本当には分かりあえなかった。この小説がいじめという題材を越えた広がりを感じさせるのは、現代人の精神の真相を描いたものであるからだと思う。世界の意味に引き込まれるドフトエフスキー的な作品。
この小説では、二つのタイプの「苛められる人」が登場する。彼らは共鳴しつつも、それでもやはり、異なっている。読めば読むほど、苛めに対する認識の違い、スタンスの違い、耐え忍ぶ理由の違いなど、様々な差異が次々と浮き出てくる。この本を読み進めるのが辛い、とは何人かの方々の書評で見かけたが、それは苛めの暴力行為の描写だけからくるものではない。「被害者」が互いに寄り添って共感できていくんじゃないか、と思った読者側の期待が、段々と裂かれていく。それが辛いのだ。
受け入れ難い世の中のアレコレに対して、コジマや百瀬みたいに極端な思考で自分を納得させようとする、みたいのは何か解らなくはないな。
個人的には初めてコンタクト入れて外の世界を見た時の感動を思い出した。
初めての川上さんの「すべての真夜中の〜」では納得がいかなかったのでリベンジでした。 主人公の状況と斜視の状態をうまく絡めていて、よかったです。結局彼女の言う、「ヘヴン」がどんな絵だったのかは気になるところ。
皆さんの感想をざっと読ませていただきました、勉強になりました。色々考えてみましたが、今のところ、私はこの小説について語る言葉を持っていません。いつか自分の言葉で語れる日が来ることを祈りつつ、初読の記念に、稚拙な読書感想文を残しておきます。 二人の手紙のやり取りや、会話は非常に魅力的でした。多くのことを語りたくなる小説です。時間をおいて再読したいです。
好きか嫌いかはさて置き、(この手のはなしには興味が持てず、共感も無理かつ作者のエッセイも詩も個人的に駄目だったので)この作家のこの調子の「ひとりよがりの克服に努める」のは賢明かつ大切かと。コジマの思想はなんか悪い宗教の人そのもの、と思って読んでいると、百瀬の思想がニーッチアンの体現ということで、ベッタベタ。これわざわざ中学生の災難にめかして読ませられた日にゃ、大人としてはもううんざり。ということで、若年層が読んで利益被るのが適宜かと。
ルサンチマンからの脱却と、そこへ捨て置かれる美しさが孕む可能性の発掘と提示。哲学者ではなく小説家だからこそできることのひとつが、確かにここで成し遂げられている。
「イジメ」についての考えが百瀬やコジマの口から語られるが、どちらにも共感できなかった・・。答えは一つではないとしても、おかしいと思ってしまう。もやもやしたまま読了。
主人公の抱えるコンプレックスである斜視の問題が後半から前景化してくるわけだけど、それは、世界をあるがままに受け入れる事が強さであり同時に意味のあることなのか、それとも、この世界は人それぞれに別の世界(=趣味)があるだけで実は全くの無意味なのか。という問いに繋がり、主人公はその両極端に振れていく。果たして彼は物語の最後に、善悪の彼岸に何を見出すのか。「ヘヴン」という絵画がこの物語世界とどのような距離にあるかが一つのヒントなのでしょう。決して単純な、所謂イジメの残酷さを描いた小説ではないことは断言できる。
主人公の一人称で話は進むが、説教臭くなく、残酷すぎず、ご都合主義すぎず、読んでいるあいだ、私も中学生に戻った。根底に漂う、中学校ならでの閉塞感がリアル。二人のその後や家族関係、二ノ宮(ゲイ?)や百瀬の恋愛事情など、多くが語られないのが、かえって良いです。舞台が90年初頭という設定は、なんか意味があるのかな? 中学生が読むと、力がわくように思う。
川上未映子2作目。乳と卵はのたうち回って読んだが、これはさくさく読めた。虐めを題材にしていた。ラストの虐められ側の反攻は壮絶だった。これで虐めは終わるのか?そう思わないと救われない気もするが・・・。社会にももっと陰湿な虐めがあってそういう社会を普遍的に描いているような気がした。
はぁ~、考えさせられた。厳しい苛めの現実から目をそらさずに、耐えて忍んでいるボクとコジマ。何故、苛めに対して反撃しないのか。コジマの言っている感覚は理解出来なかった。これからのボクは、血は繋がっていないが信頼出来る母親に支えられて、大人になっていって欲しい。コジマが心配。
川上未映子の小説は2冊目。『乳と卵』とは違い標準語で綴られており、前回のような読みにくさは感じなかった。だけど陰湿な苛めを取り扱っているから読んでいて鬱鬱とした気持ちになる。暗い部分で繋がってるふたりが何だか危なっかしくて儚く感じる。しかし、なんでこんな残酷なことができるんだろう。子どもって無邪気すぎるあまり本当に残酷。きっかけはなんであれ、誰でもいいっていう百瀬の考えは一理あるんだろうなぁ。明るいお話じゃないけど作者の確かな筆力を感じた1冊。2012/028
苛めに抗えず耐え忍ぶしかない僕も今はない過去を進行形の物にする為に自ら課した戒めを貫き通したコジマも持論を実践し正当化するように他者に話してしまう百瀬も、これは無情で過酷な現実に抵抗する術を持たない無力な子供達の話だと感じた。
黄金の雨の降る中弱さがこの上ない強さに変容していく様には圧倒されたが後一歩で何かに届きそうで届かない。
世界の見え方が一変するようにどの子供も夢から醒めるように大人になる。
僕とコジマを結んでいたか細く痛々しい絆を目なんてただの目だ、と言い切ったお母さんが唯一の大人だった。
再読/著者らしく「ことば」ありきな小説。ことばが大切に扱われている印象を受けた。「苛め」という題材自体にはあまり意味はないような気がする。ぼく=ヘヴンと読者を繋ぐ コジマ=宗教 百瀬=倫理 それぞれの役割を与えられた登場人物達で練られた感の強い作品だけれど、果たしてどこまで作者の意図を汲み取れているか・・色々仕掛けてきているのは判るのだけれども。百瀬のニーチェ的な考えがとてもおもしろかったし純文学ではあるけれど、べつに哲学知識がなくともたのしめるつくりになっているあたりがすごい。
文章自体には目新しい発想も教訓もないが、斜視という分かりやすいメタファ、宗教的なコジマと世俗的な僕の対比など、読みやすい本ではあった。中学生は微妙な年齢で、大人びた発想と子供らしい不安を不自然に併せ持つ時期だと思うし、宗教的なコジマが感情的になったり、意固地に思想を貫こうとするのが好きだった。それと母親が主人公に味方してくれる話は個人的にほっとする。浅はかな知識で汲み取れていない部分もあろうが、評判の割に読み心地はよかった。(ちなみにニーチェの崇拝したリヒャルト・ワーグナーの妻の名はコジマというらしい。)
良かった。なんだか、遠藤周作みたいな構図。でも、本作で描かれている「悪」は自らの無根拠性を自覚してる。だから本作の対立図式は、最近のサブカル批評でいう「ひきこもりから決断主義へ」という構図にぴったり当てはまる。決断主義者の並立状況を克服すべきものとして描いているけど、宇野さんの「ハッキング」のように、はっきりした処方箋は示してないような。
善と規範の化身、コジマ。悪と欲求の化身、百瀬。その間で揺れ動く僕の自我。根源的なテーマを古典的な構造で扱いながら、僕の視界を率直に映した描写が読む者にリアルな感情を引き起こす秀逸作。私も苛まれた経験があり、長い痛すぎる苦悩の果てに、「世界には向こう側がある」とわかった経験がある。その幻想のような美しさを、誰に知ってもらうことができなくても、私は生き続ける先に、自分という像を結んでいこうと思う。私のすることに意味がなくても、私が生きる意味は、失われることはないのだから。
どんな体系だろうと読者は本の中の誰かのポジションにつかされている。私たちの学生生活の中でいじめというものはなくなることはないのだ。作中において、「たまたま」いじめが始まるという本質をうまく登場人物に言わせていて良かった。 しかし、人物たちの奥行きが欲しい人にとっては難しい本になると思う。あくまで思考、コジマという人間の宗教にも似た気持ち悪い同類意識が読みたい人向けだ。
私が逃げてきた世界だ。正義とが道徳とかそういうものがただの言葉でしかない世界。怖くて、暗くて、息が詰まりそうになって、涙が止まらなくて、生きる理由を見失う世界。忘れてた昔感じてた空気を思い出した。川上さん、こんな話書くんだね。色んな気持ちを背負わされて爆発してしまいそうになるよ。
川上未映子お初です。いじめられる少年といじめられる少女。密かに文通を始めた二人のあいだに生まれた感情は何だったのか。人間が他者を求める本能的な感情が濃密に描かれていてため息。気になる断片(百瀬とその彼女、百瀬と二宮の関係など)が敢えてそのままというのも、主人公の少年からの距離感としてリアル。いじめという目を背けたくなるような人間の行為が徹底的に冷酷に描かれるので後味はよくないけど、唯一主人公の近くにいる義母の力強さにほんの少しだけ安堵できるラストだった。
うわー、またこんな本読んじまった。と言いますのはこういう書き方されちゃうと意味・教訓・命題などを考えて悩んでしまうのです。内容としては、主人公の男子がクラスメートからイジメを受けており、同じようにイジメを受けている女子との交流が始まりお互いを支えあうよになるストーリです。しかし全編でイジメは続くので結構辛い。しかし何故か読ませてしまう文章です。私なりの解釈としては、この本の中で現実味が希薄な登場人物、コジマと百瀬。二人のイジメに対する意見は、もっともの様でありながらどこか納得できない。つまり二人の考えてい
読み終えた後、身震いをするようなインパクトに、しばらく本の最終頁を閉じることができませんでした。その時受けた感想を一言で表すなら、とんでもない作品である…と。勿論、何も酷評したいのではなくて、詠嘆に近い呻きのような言葉として。本作のコジマは、私に『春琴抄』の中の佐助を思い出させました。この物語はまさに、谷崎潤一郎が『春琴抄』の中に描いた美しい物語の、極北に位置するとも言えるのではないでしょうか。ラストで投げかけられる、とんでもない問いが、いつまでも心地良く響く作品です。
世界は思っているほど広くなく、視野は思っている以上にせまいんだろう。思考だけは、限りなく広いのかもしれない。そしてそれを伝える術が言葉なのだろう…か。
ヘヴンの
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