ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2の感想・レビュー(610)
★★★★☆ 前著とは違って、本格的なオタク文化評論になっています。しかし、前半の理論編は退屈だった…記述がダラダラしすぎ、大塚氏に頼りすぎ。比べて後半は切れ味良かったです。ゲームのような小説のようなゲーム、がひぐらし。なるほど。
現代の文学を批評には今までの読み方ではダメだそうだ。内容はわかりやすいが、完全に理解するには紹介されてた作品を読んだりプレーしないとダメそう。
1950年代生まれの私には、この論評の中でゲームも文学も、知ってる作品は殆どなし。あえて言えば「うる星やつら2」のみであったが、そういえばあの作品を見たときはずいぶん感心したなあ。いずれにせよものすごい速度で表現の形式が変容している、のですね。
頭でっかちだった『動物化するポストモダン』の続編。こちらは対象を「キャラクター小説」と「美少女ゲーム」のみに絞ったのが功を奏し、作品批評として面白い。でも、自然主義で書かれたメタ小説を無視し過ぎだと思う。 ★★★☆
後半は、とても抽象的な文学論的な感じだったように思います。『九十九十九』の分析がとても興味深かったです。取りあげられた作品を読んでみてから、再読しようと思います。
再読。メタ物語的なプレイヤーの視点を物語に織り込むことによるリアリティの確保ないし感情操作がゲーム的リアリズムであり、そこにポストモダンにおける実存の問題が集約されている。
思想地図βフェアからの流れで再読。黎明期からノベルゲームに親しんでいる世代からすると、本書が現代思想の言葉を使った単なるオタク評論として消費されている現状が理解できない。より深い理解のためには、ここでの「仮構を通してこそ描ける現実」という表現が、近代小説におけるそれとは違い「‘データベースから形成される人工環境に依拠した‘仮構を通してこそ描ける現実」である、ということを認識することが重要であるように思う。
ご都合主義を書き手も読む側も了承すれば、それはご都合主義にはならない。つまり、ループ。作品の質もループするということ。現代の作品の大半に通じることだと思いますね。メタ、ポストモダン、構造主義の思想に捉われると作品の解釈が無限になり際限はなくなるので少し、危険ですけどね。 赤をつかってるのに青を使ってるような。
創作界を侵食するサブカルチャーの方法を斬新な視点で批評する。特に作品を取り巻く環境に着目したのが注目すべき点だ。環境を問い直すことによって、平板化しているかのように見える物語に違った意味付けをすることに成功している。サブカルチャー文化にみられるメタ物語性をゲームプレイヤーとしての読者に関連付けることによる読解は、美しさすら感じる。読解の新たな可能性を感じた。ただし、自然主義的読解と環境分析的読解は本質的に同じものを語ろうとしているように感じる。この区別はこれから無意味になる予感。
ライトノベルや美少女ゲームなどの昨今のオタク文化から批評的に文学性を取り出してみよう、という本。ポストモダン、メタ物語、構造的主題、などなど新鮮な話題が論じられていて、面白いと思いつつも、ちゃんと分かったかと問われると自信がない。特に「メタ」の意味がそれほどピンときていない。批評って、するのも読むのも難しいのね。取り上げられていた舞城の「九十九十九」はいずれ読みたいと思った。
キャラの自律化と共有財化が起こる。ラノベはキャラ中心の小説。80年代に現実の写生から虚構の写生へ。自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム。手塚治虫はミッキーマウス的キャラに傷つく体を与えた。ラノベはメタ物語的。コンテンツ志向とコミュニケーション志向。コミュニケーションの副産物として物語を生み出す。ゲームのような小説、小説のようなゲーム。「今、この瞬間、ココちゃんはきみのことを見ているのです」。メタ物語的な読者をいかに物語に引き込ませるかという試行錯誤。ラノベの源流は新井素子。読者に委ねたい。
かなりの紙幅を使って日本文学の系譜との接続とか、物語の置かれた現在の環境とか、ラノベの文体だとかの細かい部分について書いているけど、要は大塚の批判する(でもあずまんは大好きな)「ループ形式をはじめとした、ゲームっぽい意匠の物語」の意義をどう肯定するかってお話に過ぎないんでなんでないの?この本が前著ほど評判にならなかったがために、迂遠な話に嫌気して実作でその意義を問う方向に向かったと考えればその後の彼の展開とも整合的な気もするし。読解力では自信は全くないけど、少なくとも自分にはさほど重要な本には思えなかった
本書はリアリズムを従来の「自然主義的」なものと、漫画やゲームを素地とした「ゲーム的」なものとに分類し、その後者のもつ想像力や特性をライトノベルや美少女ゲームを参照しながら解き明かす。「コミュニケーション志向メディア」の台頭など、作品の周縁や流通形態それ自体が与える作品への影響を整理し、文学の概念の更新を迫る論考を提示する。また舞城王太郎の作品読解などは明晰で、聞くところによると舞城には本論を「逆輸入する形」で書いた作品もあるとか。
【要再読】目から鱗な文章に立ち会い、先も読みたいのだが、ここは『All You Need Is Kill』と鍵作品に手を出してからにしようと思う。新たな発見は、作品から始めたい。
ライトノベルの文学的可能性は数年経った今、大きくなっているんだろうか。 或いは今でもそれは生きているんだろうか。 詳しくないので状況に変化があるのかよく分からない。 『九十九十九』を再読したくなった。
再読。前著『動物化するポストモダン』から発展させた、オタク的作品群から見たポストモダン文学論。従来の「自然主義的リアリズム」に当てはまらない「ゲーム的リアリズム」に基づく作品群がプレゼンスを増している現状に対する分析としての、読者のメタ目線を作品内に位置づけるという指摘には、初読当時「そういうことだったのか!」と目から鱗だったような記憶がある。昨今Twitterで筆者は「オタク時代の東浩紀2.0は死にました」と言及しているが、この仕事自体はゼロ年代批評において紛れもなく重要なものであった気がする。
後半部「作品論」だけ再読。相当に奥深い。気がする。『九十九十九』の分析が鮮やか。CC、ハルヒ、ひぐらし辺りを読む(やる)必要があることを認識。
ラノベ読みとしての感想。「環境分析的読解」という読み方は、「物語とキャラと読者は別物であるという現実」を読者に突き付けるというもので、そこに自然主義とは異なるリアリズムがあるとする。しかし、創作物とリアルを結びつけたがる点で、結局は捻くれた自然主義のようにも感じてしまった。また、ラノベ読みの私としては、ヒット作のハルヒシリーズこそ取り上げて欲しかった。これにも環境分析的読解は有効ではないかと思う。書評にはラノベを読まれない方のものが目立ちますが、ラノベ読みは本書をどのように読むのだろうか。
前著の理論などを引き継ぎながらの作品評がとても面白かったが、少し対象とする作品のジャンルに偏りがありすぎる傾向を感じます。他の作風のアニメ、漫画作品の著者の評論が読みたくなりました。
分かりやすいし、すんなり受け入れられたのは時代のせいもあるかもしれない、というか自分の頭の中でふわふわしていたものが固まった。後は使い方の問題。
迷いながらもサクサクと、ほんとに頭のいい人だね。でもやっぱり、もっといろんな面から、語ることはいっぱい残っているだろうとも思う。ラノベ読んだことがないからよくわからないところも。
作品の構造的・環境分析的読解の為に再読。オタクテクストの特殊性を見出すという意味ではやはり面白い。その先の普遍性まで持っていけるかというのは・・・。作者や読者の意識に関係なく働くという「力学」がどれほどものか、と言われたら言葉に詰まってしまいそう。
理屈はすごく面白かった。ただ、参考文献が以前の本とか1巻っていうのが多かった気がする。結論に関しては、フォローしている範囲が広くなったけど、言ってることは前とそんなに変わらない用にも感じた。
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